
イサン王妃の最後、どんな運命だったか気になりますよね?
ドラマ『イ・サン』では、王妃チョンスン大妃が因果応報とも言える悲劇的な最期を迎えたかのように描かれています。
あなたもその結末が史実とどこまで一致しているのか、気になって検索されたのではないでしょうか。
この記事では、ドラマと史実の違いを丁寧に比較しながら、チョンスン大妃の実像に迫ります。単なる「悪女」としてではなく、一人の女性として波乱の時代を生き抜いた彼女の背景を知ることで、これまでとは違った見方ができるはずです。
歴史が苦手でも大丈夫。ドラマをより深く楽しむための視点と、新たな気づきが得られる内容となっています。ぜひ最後までお付き合いください。
この記事のポイント
イ・サン王妃の最後

基本情報
- チョンスン大妃と人物相関図
- チョンスン王妃の功績と評価
チョンスン大妃と人物相関図

ドラマ「イ・サン」に登場するチョンスン〈貞純(ていじゅん)〉王妃は、主人公イ・サン(正祖〈せいそ〉)の継祖母にあたる人物です。継祖母とは、血のつながりのない祖母を意味します。
彼女は21代王・英祖〈ヨンジョ〉の2番目の正室として迎えられました。
その婚姻は、英祖が65歳、チョンスンが14歳のときで、実に年齢差は51歳。現代の感覚では考えにくい結婚ですが、当時の王室では政治的背景からこうした年の差婚も珍しくありませんでした。
イ・サンとチョンスンの関係性を理解することは、ドラマの背景や王位継承をめぐる対立構造を読み解く上でも重要です。次は、そんな彼女の人生の終幕に迫っていきます。
チョンスン大妃の最後:ドラマと史実の真実

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(ていじゅんたいひ)の最期が“悪人の末路”として描かれますが、史実をひもとくと、その姿は大きく異なります。ここではドラマとの違いを中心に、実際の彼女の晩年について解説します。
ドラマ「悲惨な最期」
『イ・サン』では、チョンスン大妃は英祖(ヨンジョ)の正室でありながら、孫であるイ・サン(正祖)の即位に反対し、陰謀を巡らせた結果、王位を剥奪され平民に降格。宮中を追放されて軟禁され、孤独に病死したとされています。
物語上では、悪事の報いを受けたかのような最後が強調されていました。
史実「処罰されていない」
しかし、史実にはチョンスン王妃が王位を剥奪された、あるいは追放されたという記録はありません。
彼女は英祖の没後も王妃の位を保ち、1800年に正祖が亡くなった後には、その息子・純祖(スンジョ)の即位に伴い、摂政(せっしょう)として実権を握った人物です。
1801年にはカトリック弾圧「辛酉迫害(しんゆうはくがい)」を主導し、政治的な影響力も非常に強かったと伝わります。
チョンスンの評価は一様ではない
晩年の彼女は、権力者として朝鮮王朝に大きな影響を及ぼしましたが、その評価は分かれています。
思悼世子(サドセジャ)の死に間接的に関わったという説や、老論派との連携による権力争いがあったとされる一方、当時の複雑な宮廷事情を背景に、単なる「悪女」として断じるのは難しいという意見もあります。
ドラマと史実の間にある“誤解”
『イ・サン』のストーリーは視聴者の感情を動かすために脚色されており、とくにチョンスン大妃の描写は“フィクション寄り”です。
彼女が追放・降格されたという展開は事実ではなく、彼女は1805年、60歳で亡くなるまで朝鮮王朝内で大妃として権威を保ち続けました。
もしチョンスン王妃の人生をより深く知りたい場合は、ドラマの描写だけでなく、史料や歴史書をもとにした情報に目を向けることが、誤解を避ける鍵になります。
チョンスン王妃の功績と評価

チョンスン王妃(貞純王后)は、ドラマ『イ・サン』で冷酷な陰謀家として描かれることが多く、「朝鮮王朝を揺るがした悪女」と評されることもしばしばあります。
しかし、史実を見てみると、彼女の政治的な関与には、単なる悪意だけでは語れない複雑な側面があります。ここでは、チョンスン王妃の功績や、史実における評価について整理してみましょう。
摂政として朝廷を支えた実績
1800年、正祖(イ・サン)が急死した際、王位を継いだのは当時わずか10歳の孫・純祖(スンジョ)でした。この幼い王を支えるため、チョンスン王妃は「大王大妃(テワンテビ)」として政治の実権を握り、摂政(せっしょう)の立場に就きます。
1800年から1803年までの間、彼女は朝廷の最高権力者として政務を主導しました。この時期に朝鮮王朝の政治が混乱せずに継続できたのは、彼女の統率力があったからだと評価する声もあります。
キリスト教弾圧との関与
一方で、摂政期には有名な「辛酉(しんゆう)迫害」(1801年)が発生しました。これは当時広まりつつあったカトリック信者を対象にした大規模な弾圧で、多くの信徒や宣教師が処刑された事件です。
チョンスン王妃がこの弾圧に積極的に関与したとされており、保守的な儒教(じゅきょう)思想を重んじる立場から、新しい宗教を排除する判断を下したとも言われています。
この行動については「時代の価値観を守ろうとした」と評価する声と、「思想弾圧である」と批判する声の両方が存在します。
勢道政治の前兆をつくった影響力
彼女の実家である安東金(あんどう・キム)氏は、正祖の死後に急速に政治的影響力を強め、後の「勢道政治(せいどうせいじ)」を主導するようになります。
チョンスン王妃自身が老論派(ノロンは)と結びついていたこともあり、この政治基盤が後に腐敗や派閥争いを助長する結果になったという評価もあります。
一面的ではない歴史的評価
チョンスン王妃の政治介入は、確かにさまざまな問題を生みましたが、それを単なる「悪事」として断定するのは早計かもしれません。
未成年の王を支えるための摂政としての役割、朝廷の安定を守ろうとした姿勢など、歴史的背景を踏まえれば、複雑な立場に置かれていた人物であったとも言えます。
イ・サン王妃の最後:7つの行動とその評価

チョンスン大妃の7つの行動
- 1)イ・サンの即位阻止工作
- 2)チョンスン大妃の政治への関与
- 3)サド世子(イ・サンの父)の死への関与
- 4)チョンスン大妃と宮廷での権力争いの実像
- 5)イ・サンへの暗殺未遂は史実では?
- 6)チョンスン大妃と朝鮮王朝の秩序:ドラマと史実
- 7)側近や一族の登用は「不当」と言えるか?
1)イ・サンの即位阻止工作
ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(貞純王后)が正祖イ・サンの即位を阻止しようとする悪役として描かれています。
ドラマ「イ・サン」での描写
物語の中では、その行動が非常に劇的かつ陰謀的に描かれており、視聴者に強烈な印象を与えました。
主な描写内容
- 老論派との共謀:
チョンスン大妃は老論派(ノロン派)と結託し、王位継承に強い影響力を持つ存在として描かれます。 - イ・サンの評判を落とす策略:
王世孫であるイ・サンの人格や行動に疑念を抱かせるような噂を流し、信頼を損ねようとする場面が登場します。 - 暗殺未遂の首謀者として描写:
イ・サン暗殺を計画する陰謀の黒幕として、チョンスン大妃が背後にいるという設定があり、直接的な悪意の象徴として物語を動かします。
これらはフィクションとしての脚色が加えられており、視聴者にドラマチックな緊張感を与える重要な要素となっています。
史実での状況
一方、史実においては、チョンスン大妃がイ・サンの即位を直接的に阻止しようとした明確な記録は確認されていません。ただし、彼女が政治的に強い影響力を持ち、老論派と深く結びついていたことは複数の史料に見られます。
主な事実
- 英祖晩年の宮中政治:
英祖の晩年、チョンスン大妃はその寵愛を受け、老論派と連携しながら人事・政治に影響力を及ぼしていたとされます(参考:『承政院日記』)。 - 思悼世子の死と派閥対立:
イ・サンの父・思悼世子の処刑をめぐる背景には、老論派と少論派の対立があり、チョンスン大妃は老論派寄りの立場を取っていたとされています。ただし、彼女が直接的に世子の死を命じた証拠はなく、間接的な政治的立場に過ぎないという解釈もあります。 - 即位阻止の動きについて:
イ・サンが世孫から王に即位する過程では、老論派の一部が反発していたものの、チョンスン大妃が公式に反対した記録は乏しく、ドラマにあるような計画的な阻止行動は確認されていません。
ドラマと史実の違い
ドラマでは、チョンスン大妃の行動が「悪意に満ちた王位簒奪者」のように描かれていますが、史実ではその行動はより間接的かつ政治的な立場に基づくもので、陰謀として確定された記録はありません。
チョンスン大妃の行動は、当時の宮中政治における保守派・老論派の利害関係と密接に関連しており、結果的にイ・サンの即位に影響を与えようとした動きがあった可能性は否定できません。
しかしながら、イ・サンは障害を乗り越え、英祖の後を継いで即位し、朝鮮王朝史に残る名君として評価されるようになりました。
2)チョンスン大妃の政治への関与

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(ていじゅんおうこう)が権力に固執し、政治を操る姿が印象的に描かれます。
確かに彼女は政治に関与した人物でしたが、その実像はドラマほど直接的でも単純な「悪」でもありません。ここでは、ドラマの描写と史実を比べながら、チョンスン大妃の政治介入について詳しく見ていきましょう。
ドラマで描かれる“陰謀の黒幕”
『イ・サン』では、チョンスン大妃は高齢となった英祖(えいそ)に取り入り、側近を重用しながら王の判断に影響を与える存在として、以下のように描かれています。
- 自身に忠実な人物を重要な役職に就ける
- 情報操作によって英祖に都合のいい話だけを伝える
まるで「国王を背後から操る影の支配者」のような設定になっています。この演出は、ドラマとしての面白さを引き立てるためにデフォルメされている部分も多いようです。
史実では、間接的で持続的な影響力
実際の歴史記録によると、チョンスン大妃はたしかに政治的な影響力を持っていましたが、行動はもっと控えめで、間接的な形が多かったとされています。
彼女は宮廷内で人脈を築き、老論(ノロン)派という保守的な政治グループと連携することで自らの立場を強化しました。また、英祖の晩年には王の信任を得て、政策に対して一定の発言力を持っていたことも分かっています。
ただし、ドラマのように“王を操る”といった描写には明確な根拠はなく、あくまで政治的な影響力を周囲を通して行使していたに過ぎないと見るのが妥当でしょう。
正祖の即位後も続いた“静かな権力”
イ・サン(正祖)が即位した後も、チョンスン大妃は一定の影響力を保持していたとされます。
とくに正祖の死後、まだ若年だった純祖(じゅんそ)が王位に就くと、彼女は大王大妃(だいおうたいひ)として摂政(せっしょう)を務め、政治の中心に立ちました。
この時期には、キリスト教徒への大弾圧(1801年の「辛酉迫害」)が行われるなど、彼女の権力が強く影響を及ぼした事件も起きています。
チョンスン大妃=悪者とは言えない
たしかにチョンスン大妃の政治的立場は、後に「勢道政治(せいどうせいじ)」という外戚中心の政治体制を招く土台を作ったとも言われます。
しかし、当時の朝鮮王朝では、王族女性が政治に関わること自体は珍しいことではなく、彼女だけを「悪役」として断じることはできません。
時代背景や儒教的な家父長制度の中で、限られた立場から影響力を発揮した一人の王妃として、チョンスン大妃をもう少し中立的に見つめ直す視点が必要かもしれません。
3)サド世子(イ・サンの父)の死への関与

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(貞純〈チョンスン〉王后)は、イ・サンの父である思悼(サド)世子の死に直接関与した“黒幕”として描かれています。
ドラマの描写:悪役としてのチョンスン大妃
ドラマの中では、彼女がサド世子の失脚を狙って陰謀を巡らせ、英祖(ヨンジョ)に影響を及ぼしながら、最終的にサド世子を死に追いやる存在として登場します。
これは視聴者の印象に強く残る描写ですが、実際の史実と一致しているのでしょうか?
史実:直接の関与を示す記録はない
史実において、チョンスン大妃が思悼世子の死に“直接関与した”という確かな記録は確認されていません。
確かに、彼女とサド世子は異なる政治勢力に属しており、朝廷内では対立構造が存在していました。しかし、当時の記録――たとえば『朝鮮王朝実録』や『承政院日記』――には、チョンスン大妃が主導してサド世子の命を奪ったとする明確な証拠は見られません。
また、1762年に発生したこの事件では、サド世子が父・英祖の命により米櫃(こめびつ)に閉じ込められ、8日間の後に餓死しました。
これは当時の極刑の一つであり、王が直接下した処分でした。
死因そのものや処刑の判断は、サド世子の奇行や暴力的な振る舞いに対する朝廷の反応が大きく関与しており、チョンスン王妃の影響はあったとしても、あくまで間接的だったと見るのが妥当です。
歴史家の評価と現在の解釈
一部の歴史解説サイトでは「貞純王后がサド世子を陥れた」とする言説も見られますが、これはあくまで解釈の一つにすぎません。
学術的には、老論(ノロン)派の派閥抗争や英祖の高齢による判断力の問題、さらに宮廷内の複雑な権力構造など、さまざまな要因が複雑に絡み合った結果であるとされています。
ドラマではチョンスン大妃を「悪の象徴」として強調する演出がありますが、史実上はそのように断定できる根拠はなく、あくまで政治的立場の違いや派閥対立の中で“間接的に”影響を与えた可能性がある、という程度に留まります。
4)チョンスン大妃と宮廷での権力争いの実像

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(貞純王后)は老論派(ノロンは)と結託し、王宮内の権力を操る黒幕として描かれています。
ドラマで描かれるチョンスンの「策略」
彼女は派閥を形成し、自身に忠実な人物を重用。反対派を排除することで影響力を広げていきます。
さらに情報の操作や陰謀にも長けており、まるで王をも動かす存在のように描かれています。
こうした演出は物語を盛り上げるうえで効果的ですが、史実とはやや乖離している部分も見られます。
実際のチョンスン大妃はどうだったのか
史実においても、チョンスン大妃が政治に大きな影響力を持っていたのは事実です。
とくに英祖(ヨンジョ)の晩年には、彼女が支持する老論派が宮廷内で主導権を握っており、王室人事にも深く関与していました。
これは現代で言えば、取締役が人事に口を出し、自派閥の人物を登用するような構造に近いものです。
正祖(チョンジョ/イ・サン)が即位したあとも、チョンスン大妃の影響力は完全には衰えず、彼の改革としばしば対立しました。とくに、彼女が正祖の死後に摂政として政権を握ったことは広く知られています。
派閥争いが生んだ「勢道政治(せいどうせいじ)」
チョンスン大妃の強い政治関与は、やがて“勢道政治”という体制につながっていきます。
これは、特定の家門――彼女の実家筋である安東金氏などが実権を握る政治体制で、次第に王権よりも派閥が優先されるようになります。
正祖が理想とした公平な政治は、こうした派閥争いの影響で難航することになりました。その意味で、チョンスン大妃の権力争いは王朝の制度にも長期的な影響を残したと言えるでしょう。
チョンスンの行動は“野心”だったのか?
彼女の政治的な動きは、現代の目から見れば「権力に固執した悪女」と捉えられがちです。
しかし当時は、女性が王族の一員として政務に関わることは珍しくなく、彼女もまた王室の安定を第一に考えていた可能性があります。
一方で、派閥政治が拡大したことで王権の弱体化や制度の腐敗を招いた側面も否定できません。チョンスン大妃の評価は、時代背景をふまえて慎重に捉える必要があるでしょう。
5)イ・サンへの暗殺未遂は史実では?

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(貞純王后)が正祖(イ・サン)の命を狙う“黒幕”として描かれる場面があります。
視聴者の記憶にも強く残るシーンですが、実際の歴史資料と照らし合わせると、フィクションと史実の間には明確な違いが存在します。
ドラマで描かれるチョンスン大妃の暗殺計画
『イ・サン』では、チョンスン大妃が複数回にわたり暗殺計画を指示する場面が登場します。信頼する側近を通じて刺客(しかく)を送り、政敵である正祖を排除しようとする姿は、まさに“悪の象徴”とも言える存在感を放っています。
こうした描写は、物語に緊迫感を生み出すための演出であり、視聴者の感情を揺さぶるドラマ的な手法といえるでしょう。
史実に見る正祖暗殺未遂事件の真相
歴史上、正祖の治世中にはいくつかの暗殺未遂事件が実際に発生しています。なかでも有名なのは1795年、父・思悼世子(サドセジャ)の墓参り中に発生した暗殺未遂事件です。
この出来事は正祖の命を狙ったものでしたが、チョンスン大妃が直接関与していたという記録は残っていません。
また、正祖の治世を通して複数の陰謀事件があったのは事実ですが、それらがすべてチョンスン大妃に起因するとは言いきれません。
現在に残る公的記録や『承政院日記(しょうせいいんにっき)』などを見ても、彼女の名が事件の首謀者として明記されることはないのです。
間接的な影響の可能性と慎重な評価
当時の宮廷では、老論派(ノロンぱ)と少論派などの派閥争いが激しく、正祖は改革を進めながらも多くの敵を抱えていました。
チョンスン大妃は、老論派と強く結びついた立場にあり、政治的な背景から彼女の影響力が暗殺未遂の温床となった可能性は否定できません。
しかしながら、「彼女が暗殺を命じた」と断定するのは危険です。部下や支持勢力が“意を汲んで”動いた可能性を考慮すると、ドラマ的な断罪とは異なる、より複雑な権力構造が背景にあったと見るべきでしょう。
正祖にとっての“脅威”としての存在
チョンスン大妃が正祖にとって警戒すべき存在であったのは確かです。しかし、それは個人の悪意というよりも、当時の王権と大妃権力のバランスに起因するものであり、単純な「敵対関係」とは言い切れません。
彼女の存在が、正祖の政策や改革にとって大きな障害となった一方で、その関係性は一枚岩ではなく、儒教的な祖母への敬意もまた大きく影響していたことを忘れてはなりません。
6)チョンスン大妃と朝鮮王朝の秩序:ドラマと史実

韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(ていじゅん たいひ)が伝統や秩序を乱す存在として、やや誇張された形で描かれています。
たとえば、王の命令を無視して政治に介入したり、礼儀作法や身分制度を自分の都合で曲げたりする姿が印象的に映されます。しかし、こうした演出は、視聴者の関心を高めるためのものであり、すべてが史実に基づいているわけではありません。
実際のチョンスン王妃は「秩序を乱した」のか?
史実において、チョンスン王妃が“伝統を軽んじた”と断定できる記録はありません。
むしろ彼女は、英祖(えいそ)の晩年から正祖(せいそ/イ・サン)の治世、さらには正祖の死後に即位した幼い孫・純祖(じゅんそ)まで、長きにわたり政治の中枢に影響を及ぼしてきた人物です。
1800年には事実上の摂政(せっしょう)となり、王族の後見役として政治を主導しました。
勢道政治と派閥支配の先駆け
チョンスン王妃の政治的な影響力は、後の「勢道政治(せいどうせいじ)」の幕開けともいえる動きを生みました。
これは、特定の家門が王をしのぐ権限を持つ政治体制で、彼女が実家の安東金氏(あんどう きんし)を登用したことで、その基盤が築かれたと見る研究者もいます。
また、老論派(ノロンは)との連携を通じ、派閥主義が加速したことも、王権を弱体化させる一因となったと考えられています。
当時と現代の認識のズレ
チョンスン大妃の行動は、現代の視点から見ると「権力の私物化」とも映るかもしれません。
しかし、当時の朝鮮王朝においては、王の外戚(がいせき)や後見人が政務に関わるのは珍しいことではなく、儒教的な家父長制のもとでは「家の長老」が政治に関与する構図がむしろ自然でした。
そのため、彼女の影響力をすぐに「伝統の乱用」と見なすのではなく、当時の制度や社会背景と照らして評価する必要があります。
7)側近や一族の登用は「不当」と言えるか?

チョンスン大妃(ていじゅん たいひ/貞純王后)が、自らの一族や側近を政治の中枢に登用したという描写は、韓国ドラマ『イ・サン』でもたびたび登場します。
物語では、実力を伴わない人物を要職に抜擢し、政敵を次々と排除する“縁故主義”の象徴として描かれています。しかし、史実をもとに冷静に振り返ると、見え方はやや異なります。
安東金氏の台頭と派閥政治の常態化
貞純王后の実家である安東金(あんどうきん)氏は、彼女の影響力のもとで朝廷内に強い地盤を築きました。また、彼女は「老論(ろうろん)派」と呼ばれる保守的な政治勢力を支援し、要職への登用を後押ししたとされています。
これにより、正祖(イ・サン)の時代から次第に派閥の影響が強く残る政治構造=勢道(せいどう)政治が形成されていきました。
ただし、こうした家門の台頭や派閥の優遇は、貞純王后だけに限った行動ではありません。
朝鮮王朝の中後期では、政権を支えるために王族や外戚(がいせき)家門を登用するのは一般的な手法であり、当時の政治文化を映す現象とも言えるのです。
「悪」ではなく、時代の手段としての人事介入
チョンスン大妃が実権を握った1800年〜1803年の摂政(せっしょう)期間中、重要な人事に強い影響力を持っていたのは事実です。しかし、それを単に「私的な利益のための不当な登用」と断定するのは早計でしょう。
彼女の人事方針は、時の王(純祖〈スンジョ〉)が幼少であったこと、外戚の支援なくして安定した政権運営が困難だったことを考えれば、「政権を守るための選択肢のひとつ」とも読み取れます。
断罪よりも、背景を知ることが重要
現代の価値観から見ると、能力ではなく血縁や派閥に重きを置いた人事は問題視されるかもしれません。しかし、当時の朝鮮社会においては、縁故関係こそが政治的な安定を生む基盤だった側面もあります。
ドラマのように「不当に人を引き上げた」というイメージだけが先行しないよう、チョンスン大妃の行動は当時の制度や慣習とともに読み解く必要があります。
イ・サン王妃の最後:結局「因果応報」はあったのか?

因果応報:ドラマと史実を比較
- ドラマのチョンスン大妃
- 史実では因果応報はあった?
- イ・サン王妃の最後:まとめ
ドラマのチョンスン大妃
韓国ドラマ『イ・サン』では、チョンスン大妃(貞純王后〈ていじゅんおうこう〉)が物語全体にわたって大きな存在感を放っています。
特に中盤以降、彼女はイ・サン(正祖)と対立する“権力の象徴”として描かれ、その動向が視聴者の緊張感を高める重要な要素になっています。
ドラマで光る悪役の存在
ドラマでは、王妃でありながら王の決定に公然と口をはさみ、思悼世子(サドセジャ)の死や、イ・サンの即位阻止などに暗躍する姿が強調されています。
高齢の英祖を操るように接近し、宮中の権力構造を支配しようとする姿は、視聴者に「黒幕」としての強烈な印象を与えたはずです。
また、物語後半での「チョンスンの追放」や「孤独死」といった展開は、視聴者に“因果応報”を強く印象づけるシーンとして描かれています。
視聴者が期待する展開
冷たい部屋で一人、病に伏せながら死を迎えるチョンスンの最期は、まさにドラマ的演出の象徴と言えるでしょう。
ただし、あくまでこれはフィクションを交えたストーリーテリングであり、実際の史実とは異なる部分も多く含まれています。
とはいえ、ドラマ『イ・サン』が描いたチョンスン大妃の姿は、多くの視聴者に朝鮮王朝の複雑な権力構造や人間模様への関心を呼び起こすきっかけになったことも事実です。
彼女のキャラクターは、単なる「悪役」ではなく、時に理知的で気品ある態度を見せる場面もあり、演じた女優の演技力もあいまって、歴代の時代劇の中でも記憶に残る人物像となっています。
史実では因果応報はあった?

ドラマ「イ・サン」では、チョンスン大妃(貞純王后〔ていじゅんおうこう〕)が多くの陰謀をめぐらせた末に処罰され、追放や軟禁の末に亡くなるという描写がなされています。
こうした演出から「因果応報」という言葉を連想される方も多いかもしれません。
史実は異なる見解
しかし、史実では彼女が処罰された記録は一切ありません。むしろ正祖(イ・サン)は、祖父である英祖〔ヨンジョ〕の正室であるチョンスン大妃に対して儒教の教えに従い、形式的な敬意を示し続けていたと伝わります。
その後、1800年に正祖が亡くなり、10歳の純祖〔スンジョ〕が即位すると、チョンスン大妃は事実上の摂政として政務を取り仕切る立場に就きました。
1801年にはカトリック信者を弾圧した「辛酉迫害〔しんゆうはくがい〕」を主導したことでも知られ、政治的影響力はむしろ強まったといえるでしょう。
対照的だったサド世子の最期
チョンスン大妃と対比されやすいのが、正祖の父であるサド世子〔せじゃ〕の悲劇です。
1762年、英祖はサド世子の素行を理由に、米びつの中に閉じ込め、8日後に餓死させるという極めて残酷な方法で命を奪いました。
チョンスン大妃がこの事件に直接関与したという確たる証拠は残っていませんが、彼女が老論派〔ノロンぱ〕と結託して英祖に讒言〔ざんげん〕を重ねたとする説も存在し、歴史家の間でも見解が分かれています。
いずれにせよ、息子を非業の死に追いやられた正祖が、政治的な報復を一切行わなかったことは事実です。チョンスン大妃は1805年に60歳で自然死しており、これは当時としては長寿で、恵まれた晩年だったともいえます。
結局は幸運な人生だったのか?
外から見れば、チョンスン大妃は処罰も追放もされず、政権の中枢にとどまり続けた「幸運な人生」と思われるかもしれません。
しかし、孫にあたる正祖の即位後も宮廷内では常に対立と緊張が続いていたことを考えると、その「幸運」は決して穏やかなものではなかったとも受け取れます。
また、カトリック弾圧や派閥政治などに加担したことへの歴史的評価は現在でも分かれており、彼女の人生を単純に“報いを受けた”とか“受けていない”と断ずるのは難しいのが実情です。
【参照元(韓国語)】朝鮮王朝実録:정순왕후 (貞純王后)
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イ・サン王妃の最後:まとめ

イサン王妃の最後は、史実上では必ずしも因果応報とは言えません。
ドラマ『イ・サン』で描かれたチョンスン大妃の追放や孤独死は、物語上の演出に過ぎず、実際の彼女は政治の中枢にとどまり続け、60歳で自然死を迎えています。
サド世子の死や暗殺未遂事件など、多くの陰謀が絡む時代において、彼女の行動は“悪事”と断じきれない複雑な側面を持っていました。
現代とは異なる儒教社会の価値観を背景に、チョンスン大妃は王朝の秩序と立場を守ろうとしたとも言えます。
あなたがこの記事を通して、ただの悪役ではない彼女の姿を知ることで、イ・サンという作品に対する理解がより深まり、歴史そのものにも少し興味が湧いてきたなら幸いです。