
イサンでソンヨンが側室になったのは事実なのか、また関係性については、誰もが気になるドラマのポイントです。
ドラマ『イ・サン』で印象深く描かれたソンヨンが、史実ではどのような存在だったのか――実は、彼女の側室昇格は朝鮮王朝でも極めて“異例”な出来事だったのです。
この記事では、史実に基づいて「ソンヨンがなぜ選ばれ、なぜ愛されたのか」、その昇進の背景や正祖との深い絆に迫ります。
あなたがドラマの感動をより深く理解したいと思っているなら、この記事を読めばその答えが見つかります。
史実とドラマの交差点を、いま一緒にたどっていきましょう。
この記事のポイント
イ・サン ソンヨンが側室になる軌跡と人物像

記事の流れ①
- ソンヨンの基本プロフィールと呼び名の変遷
- 宮女から側室へ
- 正祖の側室と比較:ソンヨンの特別な立場
- ドラマと史実:ソンヨンの昇格と正祖との関係
ソンヨンの基本プロフィールと呼び名の変遷

まず最初にソンヨン(=ウィビン)についての基本情報を解説します。
この時代は呼び名が変わり混乱しやすいため、一覧として下記にまとめました。
呼び名の変化について
宮女から側室へ

正祖(イ・サン)の寵愛を一身に受けたことで知られる側室、宜嬪(ぎひん/ウィビン)成氏(ソンシ)。
彼女は1753年、昌寧(チャンニョン)成氏という中堅の士族の家に生まれ、幼くして宮中へ入りました。
当時10歳ほどで、王の母である恵慶宮(けいけいぐう)洪氏に仕える内人(ネイン/女官)として仕え始めます。
ソンヨンがたどった異例の道のり
この時代の宮女は、身分が低いため地位を上げることが非常に困難でした。
それでもソンヨンは、誠実さと礼儀、そして控えめな人柄で宮中での評価を高めていきました。
正祖との出会いと信頼関係
若き日の正祖がまだ王世子(おうせいし/皇太子)だった頃、ソンヨンと出会います。
史料によれば、正祖はソンヨンの慎ましさや誠実な性格に惹かれ、深く信頼するようになります。
しかし、ソンヨン自身はすぐに側室になる決意を固めたわけではありません。
当初は正妃・孝懿王后(こういおうごう)への遠慮もあり、正祖の申し出を2度も断ったと記録されています。
身分が低い者が王の寵愛を受けることには、さまざまなリスクが伴う時代でした。
側室としての異例の昇進と世継ぎの誕生
転機が訪れたのは、1782年のこと。ソンヨンは内人(女官)の身分のまま、正祖の第一子となる王子を出産します。これが後の文孝(ぶんこう)世子です。
この出産をきっかけに、彼女は「昭容(しょうよう)」という正三品の側室に封じられ、さらに翌年には正一品である「宜嬪」にまで昇進しました。
通常、側室には正式な選抜過程が必要でしたが、ソンヨンのように女官から直接昇格するのは非常に珍しく、まさに異例中の異例でした。
宮中で果たした役割と正祖の深い愛情
宜嬪成氏は、単に王の寵愛を受けるだけでなく、後継者を産んだことで宮中での立場を強めました。
実際、正祖は彼女の死後も深く嘆き悲しみ、自ら墓誌(ぼし/墓に添える文)を記したほどです。
このように、ソンヨンが側室となるまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。彼女の誠実さと控えめな性格、そして正祖の強い信頼と愛情が、異例の昇進を導いたのです。
正祖の側室と比較:ソンヨンの特別な立場

朝鮮王朝22代王・正祖(イ・サン)には、いくつかの側室がいました。
その中でも、最も異例の存在とされるのが「宜嬪(ぎひん)成氏(ソンシ)」、ドラマ『イ・サン』での“ソンヨン”にあたる人物です。
ここでは彼女と、その他の側室たちの立場や役割を比較しながら解説します。
正祖の側室たち ― それぞれの歩み
元嬪 洪氏(ウォンビン・ホンし)
洪氏は正祖が王に即位してから迎えた最初の側室でした。1787年に側室として入宮したものの、翌1788年には早くも亡くなり、子を産む前にその生涯を閉じています。
在位期間が短く、正祖との関係も深まる前の別れとなりました。
和嬪 尹氏(ファビン・ユンし)
尹氏は1780年に正式な選抜を経て側室となりました。婚礼も行われた正統な側室でありながら、子を持つことはできませんでした。
記録上、王室における彼女の影響力は限定的と考えられます。
綏嬪 朴氏(スビン・パクし)
朴氏はソンヨンの死後に選ばれた側室で、正祖の後継者となる「純祖(スンジョ)」を出産したことで知られます。王子が成人まで成長した唯一の側室でもあり、王室の後継を担う重要な役割を果たしました。
宮女から最高位へ——ソンヨンの異例な昇進

宜嬪成氏の最大の特徴は、「宮女(くにょ)」から正一品(しょういっぽん)という側室最高位へと昇格した、極めて珍しい経歴にあります。
選抜を経て王に仕える一般的な側室とは違い、もともとは正祖の母・恵慶宮(けいけいきゅう)付きの女官として仕えていました。
正祖の深い寵愛(ちょうあい)を受けたことで、1782年に文孝(ムンヒョ)世子を出産。
その直後に「昭容(しょうよう)」へ封ぜられ、翌1783年には「宜嬪」の位を授かります。これは王の側室としては最高格にあたり、彼女がいかに特別な存在であったかがわかります。
愛された側室としての証――正祖との絆
正祖が成氏をいかに深く愛していたかは、数々の記録から明らかです。
彼女の急死に際して、正祖は自ら調薬に関与し、「国政を任せる相手を失った」と言い残しています。彼女のために墓碑文を自ら書いた王の姿は、後世の記録にも残されており、その愛情の深さを物語っています。
また、彼女が慎ましく正妃を敬い続けたことから、王妃・孝懿王后(こういおうごう)も彼女の死を「実の妹のようだ」と慟哭(どうこく)したという記録も残っています。
これは、成氏が王妃に対しても敬意を持って接し、後宮内で円満な関係を築いていたことを示しています。
ソンヨンの立場は王室においても特別だった
宜嬪成氏は、王子を産んだことで王室の将来を担う希望と見なされ、死後も特別な祠堂(しどう)で祀られました。
ドラマでは美化されている面もありますが、「宮女から側室へ」「正祖の深い寵愛を受けた」「王子の生母である」という事実は、いずれも歴史的に確認されたものです。
同じ側室の中でも、ソンヨンは正祖の人生に最も大きな影響を与えた存在といえるでしょう。
ドラマと史実:ソンヨンの昇格と正祖との関係

韓国時代劇『イ・サン』に登場するソンヨンは、史実における宜嬪(ぎひん)成氏(本名:成徳任/ソン・ドギム)をモデルにしています。
絵画の才能は史実にはない
1753年に昌寧成氏の家に生まれ、若くして宮中に入り、正祖の母・恵慶宮(けいけいきゅう)に仕えたのが最初の経歴でした。
ドラマでは、彼女が図画署(とがしょ)に所属する才女として描かれますが、史料上、成氏が絵師であった記録はなく、これはフィクションです。
史実では図画署に所属していた記録はなく、正祖の母・恵慶宮に仕える内人(ないじん)として宮中に入ったとされています。
宮女から“異例の昇格”へ
史実でも、成氏は王妃ではなく宮女(くんにょ)から側室に抜擢(ばってき)されており、これは当時として非常に異例なことでした。
1782年、正祖の長男である文孝世子(ぶんこうせいし)を出産した直後に「昭容(しょうよう)」に封じられ、翌年には側室として最高位の「宜嬪」に昇格しています。
一般に側室には選抜制度がありますが、成氏は寵愛(ちょうあい)を受けた結果、正式な手続きを経ずに昇格しており、この点もドラマと異なる点です。
正祖が生涯を通じて深く愛した存在
成氏は政治的な立場を表に出すことは少なかったものの、正祖の信頼は非常に厚く、深い愛情があったことは、正祖自身の記録からも明らかです。
さらに、正祖は成氏の葬儀に最高礼遇を与え、自ら墓碑銘を執筆。その中で、王妃・孝懿王后(こういおうこう)までが「妹を亡くしたかのように慟哭(どうこく)した」と綴られています。
ドラマに見られる“脚色”とは
一方、ドラマ『イ・サン』では、ソンヨンと正祖の関係がよりロマンチックに演出され、昇進過程も政治的駆け引きの中で描かれます。
また、成氏の死因について、ドラマでは「肝硬変(かんこうへん)」とされていますが、史実にはそのような記録はなく、妊娠中の急病(妊娠中毒症など)の可能性が高いと専門家は推測しています。
ドラマが伝える「真実以上の感情」
ドラマ『イ・サン』は、史実に基づきつつも視聴者の感情を引き込むために、フィクションを巧みに取り入れています。
それでも、史実の成氏が正祖の人生において特別な存在であったことは疑いようがなく、その点ではドラマと現実が重なる瞬間も確かに存在しています。
イ・サンのソンヨンと側室、時代背景

記事の流れ②
- ソンヨンが側室になるまでの道のり
- 宮女から側室へ──史実に見るソンヨン昇格の道
- 成氏の死後に設けられた祠堂「宜嬪宮」から見る影響力
- イ・サン ソンヨンと側室:まとめ
ソンヨンが側室になるまでの道のり
韓国時代劇『イ・サン』は、朝鮮王朝第22代王・正祖(チョンジョ)の波乱に満ちた人生を描いた人気ドラマです。
その中でも、ソン・ソンヨン(劇中名)として登場する側室「宜嬪(ウィビン)成氏」は、多くの視聴者の心をつかみました。
宮女から側室へ──史実でも“異例”の大抜擢
史実における宜嬪成氏(ぎひん せいし/성덕임〈ソン・ドギム〉)は、1753年、昌寧成氏(チャンニョン・ソンシ)という家系に生まれ、若くして宮中に仕えました。
10代の頃から正祖の生母・恵慶宮(けいけいきゅう)洪氏のもとで働き、信頼を得ていたとされます。
彼女が正祖の寵愛(ちょうあい)を受けて男子(文孝世子)を産んだのは1782年。
これを機に「昭容(しょうよう/ソヨン)」という位が与えられ、翌1783年には最上位の側室である「宜嬪」に昇進しました。これは、正式な選抜を経ずに宮女から昇格した極めて異例のケースでした。
正祖との関係──ただの愛人ではない、信頼の証

ドラマではロマンチックな恋愛模様が描かれていますが、実際の正祖と宜嬪成氏の関係は、単なる恋ではなく「信頼」に満ちたものでした。
成氏が亡くなった際、正祖は深く嘆き、国政を中断するほどでした。
また、彼自身が成氏の墓碑(ぼひ)を自ら撰文(せんぶん)し、最上格の葬礼をもって手厚く葬っています。このような対応は他の側室には見られないもので、成氏が正祖にとって特別な存在であったことがうかがえます。
死因に関する誤解──「肝硬変」は史実ではない
ドラマや一部メディアでは、成氏の死因を「肝硬変」とする説が流布していますが、一次資料である『正祖実録』には死因の明記はありません。
正祖自身の言葉からは「懐妊中に体調を崩し、回復せず亡くなった」ことが読み取れます。
現在の医学的見解では、「妊娠中毒症」などの合併症の可能性が指摘されており、「肝硬変」と断定する根拠はないことが分かっています。
ソンヨンの描かれ方──ドラマが脚色した点
ドラマ『イ・サン』では、ソンヨンが「図画署(とがしょ)」の女官として登場しますが、これはフィクションです。史実には、彼女が絵師や芸術職に携わっていた記録はなく、あくまで内人(女官)として仕えていた人物です。
また、ドラマ内での華やかな出世劇や陰謀劇も、実際の歴史では記録がほとんどありません。あくまで視聴者の興味を引く演出として、ドラマチックに脚色されていると考えられます。
それでも伝わる「真の愛」の記憶
フィクションを交えつつも、ドラマが描いた「正祖とソンヨンの深い絆」は、史実から見ても決して的外れではありません。
異例の昇進、王からの手厚い愛情、そして亡き後にも続いた敬意──ソンヨンこと宜嬪成氏は、王の心をつかんだ唯一無二の女性だったことは間違いありません。
宮女から側室へ──史実に見るソンヨン昇格の道

韓国の歴史ドラマ「イ・サン」に登場するソンヨン(成徳任/ソン・ドギム)は、低い身分から正祖(イ・サン)の側室へと昇りつめた異例の人物として描かれています。
物語ではその過程がロマンチックに脚色されていますが、史実に基づいた実際の昇格の背景には、王の強い愛情と特別な事情がありました。
正式に側室となった年は1782年
史料によれば、成徳任(のちの宜嬪〈ぎひん〉成氏)は1753年生まれ。正祖の生母・恵慶宮(けいけいきゅう)付きの宮女(くにょ)=内人(ないにん)として宮中に仕えていました。
正祖がまだ王世子(おうせいし)だった時代から信頼を得ていたとされますが、成氏は2度にわたり側室の申し出を断っていたという記録もあります。
その後、1782年9月7日(正祖6年)、成氏は正祖の長男・文孝(ぶんこう)世子を出産。
王子の出産と昇格
このときはまだ宮女の身分でしたが、出産と同時に側室の位「昭容(しょうよう)」が与えられました。
さらに、翌年1783年2月には、王の側室としては最高位である「宜嬪(ウィビン)」に昇格。
宮女出身でありながらこの地位にまで上り詰めたのは、朝鮮王朝でも稀な例です。
ソンヨンの最後

ウィビン成氏(宜嬪〈ぎひん〉成氏/本名:成徳任〈ソン・ドギム〉)は、朝鮮王朝第22代王・正祖(イ・サン)の側室であり、長男・文孝世子(ムニョセジャ)の生母として知られます。
ドラマ「イ・サン」では“ソン・ソンヨン”という名前で登場し、視聴者に強い印象を残した人物です。
短すぎる半生
しかし、彼女の人生はあまりにも短く、1786年(正祖10年)9月14日、三度目の妊娠中に急逝しました。
史料によると、彼女の病状は「子懸(しかけん/妊娠中に気が逆上し、息苦しくなる症状)」であったと記録されています。
これは現代でいう妊娠中毒症(子癇〈しかん〉)に近いと考えられています。
一方、民間や一部メディアでは「肝硬変による死」とも言われますが、一次史料にはそのような医学的記述は一切存在せず、信ぴょう性はありません。
また、他の側室による毒殺説が流れたこともありましたが、正祖自身が「薬の調合は自ら監督していた」と明言し、自らこれを強く否定しています。
これは王が後宮の病状にまで深く関与していたこと、また成氏への強い信頼の現れと受け取れます。
彼女の死は、正祖にとって非常に大きな痛手でした。
正祖が受けた衝撃
正祖は彼女の死後、食事を断ち、政務にも顔を出さず、深い悲しみに暮れたと『正祖実録』に記されています。その悲しみは公的記録にも現れており、正祖は宜嬪成氏のために自ら墓碑銘を撰文したとされます。
王が直接追悼文を書くのはきわめて異例なことであり、彼女への格別な思いが伝わってきます。
さらに、成氏は後宮でありながらも、王妃に次ぐ「正一品」の位を与えられ、葬礼も後宮最高の格式で執り行われました。
これらの事実からも、彼女が単なる側室ではなく、正祖にとってかけがえのない存在であったことがうかがえます。
成氏の死後に設けられた祠堂「宜嬪宮」から見る影響力

歴史ドラマ『イ・サン』で正祖(イ・サン)の最愛の側室として描かれる宜嬪(ぎひん)成氏(ソンヨン)。彼女は1786年に若くしてこの世を去りましたが、亡くなった後も朝鮮王室では特別な存在として扱われていました。
その証拠となるのが、1804年(純祖4年)9月1日付の『純祖実録』の記録です。この記録は、正祖の孫にあたる第23代王・純祖(スンジョ)が即位して4年目にあたる時期のものです。
該当箇所の日本語訳と解説
(…前略)
さらに以下の人物の墓には、内侍(ネシ/王室に仕える男性官僚)を派遣して供養を行うよう命じた:
・海昌尉(ヘチャンウィ)
・昌嬪(チャンビン)
・宜嬪(ウィビン)
・延齡君(ヨルリョングン)
補足(現代語での解釈)
この記録は、1804年(純祖4年)に王が多数の歴史的人物に対して官職者を派遣し、国家の名で公式の追悼儀式(供養)を命じたという記録です。
その中に「宜嬪(ウィビン)=宜嬪 成氏(ソンヨンのモデル)」の名前が含まれているため、純祖期にも成氏が王室において顕彰されていたことが分かる重要な一次史料です。
【参照元(韓国語)】朝鮮王朝実録:純祖4年の祭祀依頼の記録
成氏の死後に設けられた祠堂「宜嬪宮」

成氏の死後、正祖は宮中に「宜嬪宮(ぎひんぐう)」と呼ばれる祠堂(しどう)を設け、継続的に祭祀(さいし)を行っていました。
これは極めて異例で、王を生んだ側室の中でも特別な顕彰であり、後に「七宮の制」に統合されました。
朝鮮王室の追悼儀式とは?
この年、王命によって多数の歴史的人物の墓所に国家の名で追悼の祭祀が行われました。
対象となったのは、孔子を祀る祠堂「闕里祠(けつりし)」をはじめ、歴代の王子(大君)や忠臣、さらには学者たちの墓所などです。
その中に、正祖の側室である「宜嬪(ウィビン)」の名も明記されているのです。
この儀式は、王室の正式な命令により、宮廷の内侍(ないし:王室付きの男性官僚)が現地に赴いて行われたものでした。
単に家族や私的な弔いではなく、朝鮮王朝が公的に執り行った国家的追悼のひとつだったという点が非常に重要です。
側室でありながら異例の格式と敬意

一般に、このような追悼は王妃や王を生んだ側室など、王朝の安定に寄与した人物に限定されることが多く、宜嬪成氏のように王妃ではなく、産んだ王子(文孝世子)が幼くして亡くなっている身で顕彰されるのは非常に異例といえます。
つまり、宜嬪成氏は生前のみならず、亡くなった後も王室から格別な敬意をもって祀られ続けたことが、この史料から読み取れるのです。
しかもこの記録は、彼女の死後およそ18年が経過しているにもかかわらず、王朝の祭祀対象として名が残されていた点において、成氏の存在がいかに深く記憶されていたかを物語っています。
『イ・サン』のロマンスは、史実でも特別な関係だった
ドラマではロマンチックに描かれる成氏と正祖の関係。しかしながら、一次史料を通しても、正祖が彼女を深く愛し信頼していたこと、そしてその思いが純祖期にまで継承されていた事実が確認できます。
たとえドラマが脚色を加えていたとしても、その根底には史実に基づいた強い絆が確かに存在していた――そう思わせてくれる、貴重な記録といえるでしょう。
【参照元(韓国語)】承政院日記(「宜嬪成氏」で検索すると確認できます。)
【解説記事】
イ・サンのソンヨンと側室:まとめ

イサンのソンヨンと側室というテーマから見えてくるのは、単なるドラマ上のロマンスではなく、史実に刻まれた深い信頼と絆です。
宮女から側室へ、そして王からの最上位の敬意を受け続けたソンヨン。
正祖の人生において、彼女はかけがえのない存在であり、その影響は死後も祀られ続けたほど特別なものでした。
ドラマ『イ・サン』を見て心動かされたあなたにとって、この記事の内容はきっとその感動をより豊かに補完してくれるはずです。
物語の奥にある“本当のソンヨン”に、少し近づけた気がしませんか?